サイト管理者自己紹介
氏名 森田義彦 昭和37年生まれ B型
昭和56年 桐朋高等学校卒業
昭和60年 東京大学工学部精密機械工学科卒業
私が神様のことをホームページにしようと思った理由は、神様の実在を知ったことと、いまの社会のほとんどの人が神様を知らない状況にあるところです。
私が神様を知るようになったのは、大学のころでした。
それまで、私は神様が存在するとは思っていませんでした。
しかし、あるお話に触れる機会があって、そこで、神様のことを聞きました。
その話の中で、最初、一番感動したのは、創造本然の世界についてのお話です。
神様がもともとお創りになった世界は、神様を中心として、神様の限りない愛を受けながら、夫婦や親子、兄弟、社会、世界が、愛と美を授受しあって、喜びと幸福のなかに生きる理想的な世界だったということでした。
愛というのも、相手のために生きるのがほんとの愛だというのに新鮮さを感じました。
世の中では愛を受けることばかり熱心で、その結果争いが絶えません。自分中心ではいけないのに、と誰しも思っていると思いますが、そんなことを言いだす人は誰もいません。みんな自分のことで精一杯で、自分さえよければ、という傾向が強いのがいまの世の中です。
でも、ほんとの愛というのは、相手のために生きる愛だったのです。そして、ために生きる愛は、喜びとともにどんどん大きくなって、限りない幸福に到達する、これが、創造本然の世界だったというお話でした。
しかし、現実は創造本然の世界とかけ離れています。
私たちは、現実を見るたびに失望し、あきらめに似た気持ちになります。
果たして人類が創造本然の愛の世界に立ち返る方法はあるのでしょうか。
もしほんとにあるとしたら、自分はその実現のために人生を送りたいと思いました。
でも、それがほんとかどうか確かめてみる必要がありました。
それで、私は、その話をとことん研究しました。
そして、それがほんとであることを確信しました。
神様の創造は、愛の原理原則にのっとっているのです。
人間の魂が永遠なる存在であることも、愛の原理原則にのっとっている当然のことなのです。
神様が永遠なる存在であり、人間は神様の愛の対象だからです。
では、なぜ人間は、神の愛がわからなくなってしまったのでしょう。神の愛に包まれて生まれてきたのに、実に不思議なことです。
人間が創造本然の世界に生きることを妨げているのは、人間が堕落したことだと知りました。
堕落したというのは、平たく言うと、人間が天使と結婚してしまったということです。
本来、最初の人間アダムとエバが、成人してから、結婚しなければならなかったのに、
成人する前に、エバと天使長ルーシェルが結婚してしまったのです。
エバはそこにアダムまで巻き込んでしまい、成人前の未完成期に、性関係を結んでしまいました。
結局、私たち人類は、神様を親とすることができず、サタンと化した天使長との関係の中から生まれてきてしまったのです。
また、愛を完成できなかったので、現在にいたるまで完成した愛を知らない状態にあるのです。
イエスキリストが、ユダヤ人たちを指して、「へびよ、マムシの子らよ」といった理由は、罪汚れたものたちよという抽象的な意味ではなくて、こういう理由があったのです。
仏教では、堕落している人間の精神作用を邪念とか煩悩といい、その主体を魔とかいいますが、その正体まではわかりませんでした。
また、キリスト教も漠然としかわかりませんでした。
その主体、サタンとか閻魔大王とか悪魔とか呼ばれているものの正体は、天使長ルーシェルなのです。
天使長には、ルーシェル、ガブリエル、ミカエルの三天使長がいますが、ルーシェルだけが聖書に登場してこないのは、彼こそがサタンの正体だからです。
ところで、死という言葉には、2通りの意味があります。肉的死と霊的死です。
肉的死は、その字のごとく人間なら誰でも迎える臨終のことです。
霊的死とは、堕落した状態のことです。しかし、霊的死は、生き返ることができるのです。
人間の魂は永遠なる存在だからです。
神様も、人類歴史を通して、すべての人間を霊的に生き返らせるための摂理をしてこられました。
イエスキリストは、その摂理のなかの氷山の一角です。
霊的死から生き返る方法は、神様の愛を完全に知って、いままでのサタンとの関係を断ち切るためにもう一度神様の祝福を受けることです。
でも、堕落した状態の人間どうしがいくら考えたり話しあったりしても、神様の愛を完全に知ることはできませんし、祝福をどうしたら受けられるのかということもわかりません。
神様が救いの糸として垂らした、メシアという存在から、神様の愛の話を聞き学ぶことを通してこそ、神様の愛を完全に知ることができるのです。
そして、メシアを通して祝福を受けることができるのです。
2000年前、イエスキリストがメシアとして登場しました。
でも、イエスキリストが33歳の時に、当時の人々は、彼を十字架で処刑してしまいました。旧約時代の律法と、イエスのいうことが合っていなかったからです。
当時の人々には、神様の愛がよくわからなかったのです。
イエスキリスト自身も、人々になんとか理解してもらおうと、たとえ話で話をしました。それでも人々はイエスを十字架にかけてしまいました。
ですから、イエスキリストは人々に祝福を与えることも出来ませんでした。
人間は、男性と女性が一つにならなくては、子孫を残すことができません。神様がそのようにされました。ですから、神様の祝福は、男性と女性がいっしょに受けなければなりません。
神様とイエスと聖霊は、神様と男性と女性という立場で、信徒を復活させるという原理的立場にたっています。
しかし、イエスキリストは、それを地上で果たすことができませんでした。
アダムとエバが神様から祝福を受けたときも、「生めよ、殖えよ、地に満ちよ」と祝福されました。
それで、神様は、もう一度、メシアを遣わされて、イエスキリストが言うことができなかったことや果たすことができなかったことも含めて、すべてをあきらかにされるのです。
それがメシア降臨の時代です。
私の考えに、どこか思い込みがあるでしょうか?
もしあったら、指摘してください。
この世界が存在する理由は、神が創造したことにあり、神が創造した原理原則に従って話しを進めれば、このようなことが分かりました。
このお話は、統一原理というお話です。
では、いまの時代はメシア降臨の時代でしょうか。
いまの時代は、文明の高度な発達や、キリスト教やノストラダムスの予言で終末と予言されていること、仏教でも末法の世と予言されています。
ですから、メシア降臨の時代はいまの時代をおいて他にはないでしょう。
聖書の黙示録でも、ノストラダムスの予言でも、地球が滅亡するようなことが書いてありますが、それは、サタンの主権が滅び、創造主である神の主権、すなわち本然の主権が回復することを言ったものです。霊界においては、すでに主権復帰がなされましたが、地上においてはまだ悪の残党が残っているというのが、今の時代です。
では、メシアは誰なのでしょうか。
メシアが誰なのか、ほんとにメシアなのか、それは、その人の言動をよく見れば、おのずとわかります。
創造主である神様とその愛、その原理原則をはっきりと教えてくれている人がメシアだということです。
その原理原則に従って生きる人がメシアだということです。
でも、メシアも命がけの苦労の道を乗り越えなければなりません。
メシアも人間のひとりだからです。
また、人類が堕落した責任を、代表して取らなければならないからです。
また、イエスの時と同じように、人類が、彼を受け入れるのには、理解に苦しむからです。
これらの問題を解くために、統一原理を解いて下さった文鮮明先生は、命がけの苦労をされたと聞きました。なぜなら、ほかの誰もわからないことでしたから。
神様にたずねもとめ、神様から直接答えをもらわなければなりませんでした。
それが出来て、いまこうして、統一原理を聞けば、だれでも神様の愛がわかるようになりました。
もし文先生に出来なかったとしたら、人類は、神様の愛がわかる終末期まで、再び、数千年間待たなければならなかったでしょう。
私は、文先生によって神様の愛が完全に理解できるようになったことを確かめることができました。
それで、人類が創造本然の愛の世界に立ち返ることが可能だと結論しました。
文鮮明先生は、神様と人類の幸福のために、生涯を捧げてこられた方です。
それは、文先生の行っていることの一つ一つの意味をよく知ってみると分かりました。
マスコミの報道とはまったく違った意味がありました。
人類を我が子として創造された神様に対して、人として最高の親孝行をされました。
私は、文先生に心から感謝しています。
ありがとうございました。
そして、みなさん、今、文先生ご夫妻がされている国際合同結婚式の意味をよく考えてみてください。
わたしが、いまここで述べてきたなかにその意味があります。
私も、1988年、韓国のおける国際合同結婚式で、結婚いたしました。そのとき生まれた6500カップルの中の1カップルです。
みなさまが、神様の祝福を受けて、永遠なる幸福を得ることが出来ますように。
いつでも、ご連絡をください。
ありがとうございました。
森田義彦
私が文先生や文先生の評判についてどう思っているか、もう少し詳しく