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日々実感

☆超歴史スペクタクル 地球の夢!生命の夢!!ダーウィンの大冒険〜僕たちはみな進化という名の旅をしている〜を見て (04/11/06)

ダーウィンが生物の進化を発見したことは偉大なことであると思います。
しかし、いくつかの誤解もあったようです。
私は創造主の存在を前提として、ダーウィンの進化論を肯定しつつ、ダーウィンの誤解を指摘します。
私は、神は最高の科学者であると思います。原子を創造し、それを組み合わせて最初の生物の遺伝子を創造し、生物を進化の軌道に乗せたのは創造主であると思います。
神はなぜ、生物を生かし、また死なせるのか、これは無駄なことではないか、と彼は考えたようですが、生物の生死と繁殖の繰り返しがあるからこそ進化もあるのです。
また神が創造したから永遠のはずだというのも誤解でした。たとえ神が創造したものであっても絶滅しておかしいことはありません。
ウミイグアナがいかにしたら生き延びることが出来るのか何代にもわたって結論を出した、という説明は不適当です。そのようなことがイグアナに出来るわけはありませんし、考えても自分の体を変えることはできません。環境があっても、遺伝子がそれにあわせて変わっていくことができなければ、進化は不可能であることを考えますと、もともと遺伝子がそのように変化できるようになっており、そのように変化できたのはなぜか、という疑問が最後まで残るのです。
ダーウィンは、ガラパゴス諸島を神から見捨てられた島と感じたようですが、これも誤解です。地球上に神が見捨てた地など存在しません。すべてが、神の愛を映し出したものです。たとえ醜いイグアナであっても神の被造物であることに変わりはありません。
ダーウィンは人間には魂があるということを知っていたのでしょうか。人間は物質のみからなるのではなく、物質である肉体と霊魂からなっています。そこが物質のみからなる猿と人間との違いです。
地球上に存在するものは神が創った永遠のものではなく・・・というのは誤解でした。神が創ったなら永遠のはずだというのは誤解です。生物の体は原子の集まりです。原子は集まっては分かれていくことを繰り返しながら永遠に存在するのです。それが神の創造した世界です。
ハトの品種改良をしていろいろな形のハトを作ったとしても、ハトはハトです。ハトがハト以外のものになった例はありません。これもダーウィンの誤解でした。むしろ自然法則に従えば、ハトからはハトしか生まれてきません。新たなる生物が出現してきた進化は創造主の力が加わらなければ不可能なことです。
ダーウィンには、娘を亡くしたことで神に対する恨みがあったようです。神が存在するならばなぜという思いを超えることができなかったようです。しかし、それは、神が創造された永遠の世界である霊界の存在を知っていたならば超えることができたでしょう。
最後に荒俣さんのコメントに対しての感想ですが、人間とミミズを同等に考えることはできません。人間は地上に生きる存在の一つとして他の動物に恥じないような正しい生き方をすべきだということでおっしゃったのだと思いますが、人間には同時にミミズにはない責任があります。神の子として命を与えられた人間だからこそ、生物の研究も、改良も、利用も許されているのです。その上で、人間は万物の霊長として、正しい生き方をしていかなければならないと言って欲しかったと思います。
http://www.tbs.co.jp/program/dawinsp_20041103.html


☆首相官邸に送った意見メール (04/02/17)

教育の現場において、また、社会に出て人生を歩んでいく上で、なぜ人間は存在するのかという問いが、人生を左右する究極的問題であることは明白です。自殺や犯罪が増えている現代社会において、明確な回答が必要なのはその問題です。しかし、それは分からないというのが今までの人類でした。それで、今までの教育はそこを曖昧にしてきました。
しかし、最近、科学の分野において、生物の進化が子孫に受け継がれる遺伝子の構造の変化であることがわかってきて、状況は変化してまいりました。遺伝子の構造を動物自身が思い通りに変化させることは不可能なので、結論として、進化は動物が自分自身でしたものではないことがわかりました。動物の姿は、自分で考えたものではありません。また、遺伝子に、生き物を出現させる目的性を持った膨大な「情報」が組み込まれていることを考えますと、それが偶然出来たものでないことも明らかです。それで、遺伝子配列に情報を組み込んで生物を創った創造主の存在は、科学の分野でも明らかになりました。今では、遺伝子は神の領域と呼ばれています。この世界はすべて創造主が創造したものであることがわかりました。物質の根本である原子も、木や花といった植物も、動物も、そして、我々人間自身も、みな、創造主が、愛と夢と希望を抱いて創造した被造物だったのです。父母と子供で構成される家庭の姿も、創造主の理想の現れだったのです。一方、宗教の分野においては、法華経に、我々は仏の子だと書かれています。それが仏の一番伝えたかったことだと書いてあります。大日経にも、仏の心情が真言となってほとばしり、この世界が展開されたと書かれています。また、聖書にも、創造主なる神様の心情が言となってほとばしり、この世界が展開されたと書かれています。弘法大師空海は、弁顕密二教論のなかで、「すべての生けるものの本性は円満なる仏の本性そのものである。それは宗教的素質の区別を離れ、教説の区別を超えたものである。」と言いました。親なる仏の存在を前提とした言葉です。仏教でいう仏(法身大日如来)とは、キリスト教ではエホバの神、ユダヤ教ではヤハウェの神、イスラム教ではアラーの神、神道では天之御中主神と呼ばれ、これらはみな同一の存在を指しており、天地を創造した絶対者のことです。このように、科学においても、宗教においても、人類を含む天地を創造した創造主の存在が明らかになってきました。
今、世論は大きく創造主なる神を認める方向に動いています。テレビでも映画でも、創造主や霊界を扱ったものが多く見られるようになってきました。我々が存在している理由は、親なる創造主の子供として生まれてきたからです。創造主が、愛の対象として命を与えてくれたからです。永遠なる存在である目に見えない創造主が親なのですから、肉体を脱いだ後に、霊界で永遠に生きることも理解できます。いままで、人類はそれを曖昧にしてきました。創造主を信じても信じてなくても、創造主の心情に完全に合致することができず、人類は創造主を抜きにして分裂してきました。創造主を信じていても分裂するのに、創造主を知らなければなおさらです。自分がなぜ存在するのかもわからないで、どうして人生を真っ当に生きることができるでしょうか。社会に真の調和をもたらす人間になることができるでしょうか。これからの新しい時代は、我々自身が創造主なる神の愛の対象であることを自覚して、神の創造理想に従って生きていく時代だと思います。我々人間は、創造主の愛の対象として生まれてきた存在で、本性は創造主と同じなのです。それは、教派や人種・国の違いにはよりません。そして、いのちの尊さが絶対的なのは絶対者である神様の愛の対象だからです。同様に、家庭も、神様の愛が宿るところで絶対的な尊さがあります。殺してはならない、犯してはならないと、仏教の十善でも、聖書の十戒でも言われています。それは、個人のいのちを奪うことも、不倫や浮気で家庭のいのちを奪うことも、神様の創造理想に背く破壊的な行為だからだと思うのです。
創造主なる神が存在するか否かは2つに1つです。もし、創造主なる神の存在を否定するとしたら、それは間違っています。そして、創造主なる神が存在するならば、人間は創造主の創造理想の上に存在しているのですから、教育の基本は、創造主なる神の実在と神が天地を創造した理想について教えることでなければなりません。そこから豊かな人生が展開されるのです。学校教育の現場において創造主なる神とその創造理想をまず教えるように、教育の枠組みを変えなければならないと思います。創造主なる神とその創造理想を教えることこそが真に日本の未来を開きます。逆にそうしなければ、日本の未来は先細りになってしまうでしょう。どうぞよきご理解を賜りますようお願い申し上げます。



☆第2回亜細亜同胞青年指導者招請平和統一フォーラム(9月19日、ソウル)に参加して (03/09/22)

今回のフォーラムには、朝総連側から19名、民団側から13名が同席し討論するという、常識では考えられない内容がありました。民主平和統一諮問会議首席副議長が祝辞を述べられ、韓国政府も注目した会議でした。
討議内容を聞いて、南北統一をはばんでいるものは、朝鮮民族全体の、日本やアメリカに対する恨みの心情であることがわかりました。
朝総連・北朝鮮の人たちは、日帝が行ってきた非人道的な行為に対して深い情的な恨みがあります。従軍慰安婦問題はお金で解決できるものではなく、根本的に恨みです。核査察問題も情的問題であり、アメリカが核をもっているのにどうして我々にだけ持つなというのか、というものです。
また、民団はじめ韓国の人たちには、過去日帝はじめ強大国に侵略されたり、分断されたり、今も差別を受けているのは、朝鮮民族が弱いからだ、だから、南北統一して朝鮮民族は強くならなければならないという思いがあります。結局、根底にあるのは、痛めつけられた恨みです。西大門刑務所や独立記念館を見てもそう感じます。
ですから、まず、その恨みを解くことが、南北統一の為に必要だと思いました。
南北統一は、北朝鮮にとって何を意味するのかというと、恨めしくて仕返ししてやりたい気持ちをあきらめなければならないことを意味します。また、韓国人にとっては、恨めしい気持ちを忘れなければならないことを意味します。だから恨めしい思いが残っているかぎり、統一などできないというわけです。すなわち、南北統一問題は、韓国と北朝鮮だけの問題ではないし、韓国と北朝鮮だけで解決出来る問題でもないということがわかりました。
最終的には神の創造理想に立ち返るほかはないのですが、まず、我々日本人が、民団や朝総連の人たちの恨めしい気持ちに耳を傾け、理解していくことが必要だと思いました。



☆お花畑 (03/07/25)

先日、死の一歩手前まで行って帰ってきた人の話を聞きました。
その人は、その時、なにかにぐっと引っ張られてどこまでもどこまでもいって、気がついたら、真っ暗な中に自分がぽつんと一人だけいて、ものすごく恐かったのだそうです。そのうち、後ろから人の呼ぶ声がして振り向くと我に帰ったそうです。
同じ体験をした他の人の中には、一面のお花畑だったという人もいます。
人によって、死ぬと、お花畑に行く人と、真っ暗なところに行く人とに分かれるようです。
ここで問題なのは、どうしたらお花畑にいけるのかということです。
どこかの宗教団体に入っていたからとか、なにかの役職に就いたからとか、そういうことは直接的には関係しないようです。(間接的に、あるいは、結果的に、関係してくるということはあったとしてもですね。)
私も行ったことがないので、保証はできませんが、これだけは言えるということがあります。
それは、死後の世界を創造した方との関係です。考えて見れば当然です。そこへいくのに、そこを創った方がなぜそこを創ったのか、その方の気持ちを知っているのかどうかはそこでの生活を大きく左右することでしょう。
その方のことを、神様と呼んでも、大日如来様と呼んでも、その方と呼んでも、呼称は何でもよいのです。ただ、そのお方がなぜその世界を創造されたのか、その創造した目的がいったい何なのか、これを知っているかどうか、また、その目的通りの自分になっているのかどうか、ということが、お花畑にいくか、真っ暗なところにいくかを決定するということは言えると思います。

そのお方がなぜその世界を創造されたのか、いますぐ知りたい方はこちら



☆タコの墨 (03/07/17)

タコが墨を出すことは、みなさんご存知だと思います。
タコは、敵が近づいてきたら、墨を出します。
しかし、食べものを食べるときには、墨は出しません。食べるときに墨を出したら、食べ物が見えなくなってしまいます!
すなわち、タコは、自分の体が墨を出せることと、どんなときに墨を出したらよいのかをちゃんと知っているのです。
タコは、誰に教わらなくても、墨の使い方を知っています。
墨の使い方を知っているタコの心と、墨を出すことの出来るタコの体とは完全に一体化しています。
もし、タコの心の中で、敵が現れたら亀のように殻に閉じこもりたいという思いがあったらどうなっているでしょうか?
タコは気が狂ってしまうに違いありません。あるいはあっという間に敵にやられてしまうことでしょう。
それを考えると、タコの心と体が一致していることは実に信じられないほどすごいことなのです。
神様はタコの心と体が合うようにしてくれたのです。
私たち人間はどうでしょう。
上を見たいと思えば目が上を向きます。左にあるものをつかみたいと思えば手が左に動きます。
この筋肉に接続されている神経を、仮に、逆につなぎ変えたらどうなるでしょう。手を左にやろうとしたら右に行ってしまうことになるでしょう。まぶたを閉じようとしたら口が開いてしまう場合もあるでしょう。
当り前のようで、ぜんぜん当り前でないこれらの事実。
最初から心と体が一致しているこれらの事実は、
創造主である神様が心と体の両方をしっかりとつないでくれている、神様の愛を顕しています。



☆宇宙服の値段 (03/07/04)

先日は、筑波宇宙センターNASDAの見学に行ってきました。
国産ロケットHUの説明や宇宙ステーション試験棟「きぼう」などを見学しましたが、
なかでも宇宙服の値段が一番の驚きでした。

宇宙空間に出るために必要な、宇宙服のお値段、1着なんと13億円!

宇宙空間は、あるときは100度以上の高温、あるときはマイナス150度以下の極低温、有害な宇宙線が飛び交う、とても厳しい環境です。
地上で生活している私達は、そんなことぜんぜん感じません。地上を覆っている大気が私達を守ってくれているからです。
大気は、時価にして一人当たり13億円に匹敵するということを知りました。
私達は、生まれたときに、神様から、13億円の大気を、ただでもらっていることになります。
大気の特性だけ考えても時価13億円に匹敵するということです。
創造主なる神様の愛は、お金に換算したら計り知れないなあと実感いたしました。



☆為に生きること (03/06/13)

電車の中で席を譲ってもらったときと、席を譲ってあげたときと、どちらの方が喜びが大きいかと考えてみると、席を譲ってあげたときの方が大きいと感じます。席を譲ってもらったときの喜びは座っている間だけしか持ちませんが、席を譲ってあげたときはその日一日中ずっと気分がいいものです。
それはなぜなのでしょうか?
実は、神様が天地を創造された根本原理が為に生きる愛だったからです。
人間をはじめ、動物や植物もみな、為に生きる根本原理の中で生きています。ですから為に生きることは生命を得るような喜びがあるのです。
ではどの位、為に生きるのがよいのでしょうか?
私達が生きている根本原理である神様の愛が永遠絶対なので、永遠に絶対的に無限に為に生きるのが最高によいということになります。夫のため、妻のため、家族のため、国のため、世界のため、そして地上界と霊界を合わせた天宙のため、神様のため。
「為に生きること」は、「犠牲」とか「条件」ではありません。
為に生きる姿こそが創造本然の真の人間の姿なのです。
そう生きてこそ人間は創造本然の限りない喜びに満たされて、気がついてみたら天国人になっています。
為に生きるということは、自分を真の神様の子供にしてくれるのです。
生きていて、神様から愛を受けることも喜びですし、さらには、神様のように人を愛し、世界を愛することはもっと大きな喜びになります。



☆田植えの季節 (03/05/05)

田植えの季節になりました。稲は5ヶ月も経つと刈り入れの時期を迎えます。
お米の生命の目的がどこにあるかを考えてみましょう。進化論がもし正しければ、お米は人間に食べられないように進化したでしょう。そのほうが生き残る確率が高いからです。しかし、お米はおいしく人間に食べられます。では、お米の生命の目的はいったいどこから来るのでしょう。
お米の生命の目的は、人間とひとつになることです。人間においしく食べてもらえばお米もうれしいでしょう。
お米は自分で生まれてきたのではありません。お米の生命の目的は、お米と人間の両方に生命を与えた創造主の創造目的、すなわち神様の愛から来るものです。
私たち人間も、自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。どんな人でも、気がついたらこの世に存在していました。ですから、人生の目的は、どこを探しても見つかりません。人生の目的は、実は、創造主である神様にあって、その本質は愛なのです。



☆ジェンダーフリーの盲点 (03/04/14)

最近学校にジェンダーフリーという思想が入りつつあるということを聞きました。
ジェンダーフリーという思想は男女平等をうたったいい思想のように聞こえますが、実はその背後に恐ろしい結末が待っています。
ジェンダーフリー思想の根底には、創造主なる神の愛という思想はなく、男と女の性別差を考えさせまいとする無神論的唯物共産主義があるからです。
学校で性差をなくして同じ部屋で男の子と女の子を着替えさせることになってしまいます。フリーセックスを助長し、日本を骨抜きにし、日本の未来を危ぶむことになってしまいます。
みなさんのお子さんは大丈夫ですか?学校をジェンダーフリーから守らないと大変なことになります。
青少年に純潔を。真の幸福は正しい倫理道徳からしか生まれません。



☆プラレール (03/03/14)

最近、うちの子供が、プラレールに夢中になって、夜もなかなか寝なくて困ってしまうくらいです。
子供にとっては、どうしてここにプラレールがあるのか、ぜんぜんわからないけれど、もう夢中です。
もちろん、プラレールは、親である私たちが買ってきたものなのですけれど。
その子供の姿は、私たちの生きているこの世界がどうして存在するのかわからない私たちの姿を見ているようです。
少し大きくなると、どうして電車が動くのかとか、レールの構造とかに関心がいくようになるでしょう。
科学者が、この世界の裏側を研究するようにです。
でも、プラレールの電車を設計した人、レールの構造を発案した人の存在には、なかなか気がつきにくいものですね。
私たちは、生きているこの世界の素晴らしさに感動するとき、創造主なる神様の存在を忘れてはならないでしょう。



☆身体障害 (03/02/07)

霊界では身体障害というのはありません。
地上での生活期間、身体障害や脳障害だった人も、霊界では他の人と変わらない生活をします。
結局、身体障害とか脳障害というのは肉体的な障害ですから、魂の障害ではないのです。
魂の身体障害というのはありません。
永遠なる天上生活において残るものとは何でしょうか。それは愛のみです。
肉体や財産はもちろん天上世界には持っていけません。知識ですらいつかは忘れてしまうものです。
私も受験勉強をしていたころはいろいろなことを覚えましたけれども、もうすでに忘れてしまったことが多いです。
人間にとって知識自体が絶対大切なのではありません。知識を得ることを通して、愛を実感することが大切なのです。
ですからたとえ障害をもっていても、愛、神様の愛を実感できればよいのです。
また、障害を持っている方の姿や作品を通して、人々が神様の愛や悲しみを知れば、
その障害者は愛の実践者となることができるのです。
ヘレンケラーのように、たとえ障害をもっていても聖人になることができる道は実はとても身近なところにあります。
いのちの親である神様を知るところにその道はあるのです。



☆神様の愛の3原色 (03/01/15)

 創造主なる神様は目には見えませんが、その愛との出会いはつねに存在します。私達が口に入れておいしい食べ物、これらが地球上に存在しなかったら、私達は生きていけません。また、それらの食べ物を消化して栄養分を吸収する体になっていなかったら、これまた、生きていけません。その両方を考え創造してくださったのは、人間でもなく、地上に生きる他の動物でも不可能なので、神様だとしか言いようがありません。ですから、私達は、食べ物を食べておいしく感じるたびに、神様の愛を感じることが出来るのです。
 人間が、男性と女性に分かれており、男性と女性の間に子女が生まれて家庭が形成されるようになっているのも、神様がお考えになったことです。親子の愛、兄弟の愛、夫婦の愛は、神様の愛の3原色といえます。神様は家庭の中で私達と共に生活し、愛を共有したいのです。それが、神様が人間をお創りになった理由、神様の創造理想です。



☆おじいさんの大きな古時計 (02/12/12)

今日は、保育園に行っている子供の生活発表会でした。「大きな古時計」の合唱を聞きながら思いました。
ああ、これは、おじいさんの肉体のことを言っているんだなあ、と。
おじいさんが生まれたときから、天国にいくそのときまで、おじいさんといっしょに行動し、鼓動を送り続けてきたおじいさんの肉体。
火葬場でおじいさんの肉体が燃やされる時、この歌を歌ってあげられたらどんなにいいだろうか、と思いました。
多くの人は、おじいさんの亡骸を見ながらそこにおじいさんがいて、おじいさんの亡骸が燃やされる時、おじいさんとの永遠のお別れのように悲しみます。でも、ほんとはそうではありません。おじいさんは、もうすでに肉体を抜けて、永遠の、神様と一緒の生活圏のなかに吸い込まれていったのです。私達よりも一足先に。
そして、おじいさんの一生涯を通じておじいさんと共に連れ添ってきて、そこに残った肉体には、ご苦労様でしたというひと言を捧げてあげたいものです。



☆新しい時代 (02/11/02)

今回、真の父母であられる文鮮明先生の指導により、天上地上和合統一決意大会と聖火式を行いました。
神様がこの世界を創造され、真の愛の対象として私達人間を創造してくださったのですが、人間始祖アダムとエバの堕落により、人間は神様とサタンの両方の血縁を持つようになって今まで生きてきました。
神様は、人類救済の為、真の父母を地上に立てるために長い歳月をかけてこられましたが、真の父母は神様だけで立てられるものではありません。
人間のなかに、アダムとエバが果たしえなかった内容をまっとうし、アダムとエバを通して人類を支配してきたサタンを屈服させ得る闘いに打ち勝つ人物が現れなければ、真の父母は誕生しなかったのです。
しかし、それを果たした人物が人類史上はじめて現れました。それが、文鮮明先生ご夫妻だということです。
今回、ご夫妻の指導により行われた天上地上和合統一決意大会は、家庭レベルで行われたのですが、その中心に立つものは、今までの大会と違って、その大会を行った家庭自体でした。
今回の大会の重要さはそこにあったと思います。いままで、多くの祝福を私達は受けて来ましたが、それらはみな真の父母による祝福です。ところが今回の大会だけはそうではなく、ご夫妻による万全な準備のもとにではありますが、私達自身が祭壇に上がって行ったということだと思います。
すなわち、今回の大会は、私達の家庭の位置を決定するものでした。すなわち、神様の天地創造の本然の位置に私達の家庭が立つための大会だったと思いました。
アダムとエバが堕落した立場で始まってしまった人類社会。それは本来すべて否定されなければならないものです。その道をいくためにノアの洪水審判もありましたし、イエスキリストのメシア宣布もありました。しかし、人類はそれらすべてを拒否してきました。
今、今回の大会を通して新しい時代が始まりました。いままでのサタン支配の人類社会を否定し、神様の創造理想である本然の世界が確実にスタートいたしました。
価値観の転換が必要です。自分の欲望、自分の幸せを、神様の創造理想抜きにして求める生き方は結局いつか改めなければなりません。たとえどんなに理想的に見える生き方でも、神様の創造理想と一致した方向でなければすべて軌道修正を余儀なくされます。
神様の創造理想に完全に歩調を合わせる必要があります。そのためには、神様と真の父母様を知らなければならないという結論にならざるを得ないのです。



☆真(まこと)の愛 (02/10/12)

真の愛と、真がつかない愛とはどう違うのでしょうか?
自己中心的な愛が真のつかない愛で、利他的な愛が真の愛だといいますが、
利他的なのが真の愛だというならば、ある人を愛そうとするときに、その人が望むことを望みどおりになんでもしてあげることが真の愛でしょうか?
真というとき、そこには方向性の概念が含まれていると思いました。
すなわち、神様が人間を愛する方向に向かう愛が真の愛です。
神様は人間の親です。
人間の良心は人間の側から見て神様の方向にあるので、良心基準に立って見れば神様の方向からの愛がどんなだかを悟ることができます。
利他的というのは、神様が人間を愛された愛の性質のことだと思いました。
真の愛というとき、質と方向性があると思います。
神様と同じ方向から愛さなかったら、いくらその人のために命を捧げたとしても真の愛にはなりえないでしょう。
世界が平和になるたった一つの方策は、真の愛の方向で人類が一致することです。
また、家庭内においても同様で、家庭が平和で幸福になるためには、真の愛でみなが一致することです。
真の愛というとき、必ず出てくるのが神様です。なぜなら、神様から人間に向かう愛が真の愛だからです。
真の愛を説明するとき、神様のことをまず説明しなければ、真の愛を説明することはできないでしょう。
神様と真の愛とは、切っても切り離せない関係であると思いました。



☆神様との心情の近さ (02/09/22)

神様という言葉は知っていても、神様との心情の近さには、何段階かあると思います。
最初の段階は、神様がほんとに存在するかどうかはっきりわからない段階です。たとえ、神様は存在すると頭では思っていたとしても、ほんとにそうかと言われると自信がない状態です。この場合、祈りが天に届いているかどうか確信がないし、いつでも神様から離れていってしまう可能性があります。
第2の段階は、神様は存在することはわかるのですが、神様が額縁に入った無言の神様である段階です。神様を無視することはできませんが、神様はなにも語ってくれません。神様は自分を愛してくれているだろうとは思うし、神様に願いごとをして、きっと神様は聞いてくれるはずだという安心感はありますが、神様によって自分の生活が影響を受けるということはない段階です。また、祈りの時間には一生懸命神様に祈りますが、祈りの時間が終わるとどこかへしまってしまうこともあります。
第3の段階は、生きた神様とともに生活している段階です。神様の事情を知っています。でも、神様がどこにいらっしゃるのかといえば、自分とは別のところにいます。自分と神様がともに存在してはいますが、神様と自分とは別々に存在します。ですから、神様の事情によって自分の生活も変わりますが、それはやはり自分の生活であって、ともすれば、神様の事情よりも、自分の都合を優先することもあるでしょう。神様の事情に自分を合わせることがとても苦痛になることもあります。
第4の段階は、神様のなかに自分が生きている段階です。神様のゆえに自分が存在しているということが知的にも情的にもわかる段階です。自分が存在している理由は神様にあるので、自分の生活は100%神様の事情の中にあります。神様の事情に自分を合わせることが無上の喜びとなり、神様と愛で一体化している状態です。
みなさんは、どの段階ですか?



☆救世主 (02/09/18)

アンジョンファンは清水の救世主とスポーツニュースでやっていましたが、救世主という言葉はけっこうあちこちで使われます。
もちろん私達を救ってくれる人という意味ですが、その字の通りを考えれば、世界を救ってくれる人ということになります。
でも、世界を救うとはどういうことでしょうか?世界は人類全体を意味しており、スターウォーズならぬ宇宙戦争でもない限り世界を救うということはありえないと思います。
これは、救世主に、神様と人類をつなげるという意味があるのを知って、初めて納得がいきます。
イエスキリストは救世主でした。イエスキリストは、神様と人類をつなげようとしました。しかし、人類は受入れずに彼を十字架にかけました。でもイエスキリストは、神に人類の許しを請いました。それで、救世主の使命をまっとうされたのです。神様はもちろん、サタンさえも、イエスキリストを救世主と認めざるを得ませんでした。
いっぽう、人類は、救世主を殺して追いやった立場です。人類歴史はこのままでは収まりません。神様と人類がつながるまで、神様は救世主を送りつづけ、人類は、救世主を受け入れ神様につながるまで、イエスキリストが現れたときと同じ状況を繰り返さなければならないのです。



☆種 (02/09/11)

草花について考えてみましょう。草花は、種を結んで子孫を残し生存しています。しかし、もし、種を結ばない姿だったならば、子孫を残せず絶えてしまっていたでしょう。進化もなにもあったものではありません。では、いったいどうして、草花は種を結ぶ姿になれたのでしょうか?草花が自分で考えたわけではありません。また自分で姿を変えたわけでもありません。ですが、草花は種を結ぶことのできる姿をしています。自分では種を結ぶ姿にはなれないのに、種を結ぶ姿をしているというのは、自分をそのような姿にしてくれた存在があったということです。その存在を創造主である神と呼び、その存在は、目には見えませんが、明らかです。
創造主である神は、草花のみならず、動物にもオスとメス、人間にも男と女の姿を与えてくれました。創造主である神が、この世界を創造されたのには、目的と理想がありました。平和と幸福、愛で満たされた世界は、みなの理想ですが、私達より先に神様が理想とされたものなのです。今、神様を中心として、神様の理想となる家庭を再建するときです。森田訓読家庭教会では、それを具体化するために、予備祝福をさし上げています。神様から与えられるもので、ただただ、受けてくだされば幸いです。



☆ウースターにて (02/09/02)

8月13日から8月29日まで、アメリカのボストン郊外ウースターを拠点として、キリスト教の教会を訪問してきました。カソリックやプロテスタント、スパニッシュ系などさまざまな教会があり、教会長さんたちにメッセージを伝えました。
アメリカでは、創造主である神様をよく信じていますね。また、キリスト教の教会ですから、イエス様をよく信じています。
私達は、神様の願いは人類が神様のもとで一つの家族になることだと伝えました。
でも、教会長さんたちの反応としては、ジーザス・クライスト・オンリーと言って、教派の壁を超えて一つになることはなかなか簡単ではなさそうでした。
もし、イエス様が生きていらっしゃったならば、イエス様は他宗教の人たちもキリスト教の人たちと同様に愛していたことでしょう。他宗教の人たちとも愛和する真の愛を実践していただろうに、と思いました。
十字架に架けられたイエス様の像や、絵に描かれた無言のイエス様に祈りはするけれども、イエス様の本当の願いを聞いている人がいないのを感じて、とても残念に思いました。
イエス様は、神様の子です。神の子の教えに、宗派の対立などありはしません。
私達も神様の子になっていくべきです。自分を捨てて、神様の願いに自分を合わせ、宗派の壁を超えていこうと努力する人こそ、真にイエス様の伝統を相続する神の子の姿だと思いました。



☆S・P ワールドツアー 2002 日本大会に参加して (02/07/15)

奉仕を通して世界平和を実現する運動の日本大会がさいたまスーパーアリーナで開催され、それに参加いたしました。
最初にゲストスピーカーのフマユン・ムガール氏の挨拶。同氏はアジア・イスラム評論家として有名でご存知の方もいらっしゃるでしょう。氏は、この運動のためにイスラム圏へ行った日本の青年たちが、イスラム教の教会でいっしょに祈る姿を見て、驚き、偏見がなくなったと語り、奉仕は宗教・人種の壁を超えることができると強調しました。
また、メインスピーカーはこの運動の会長である文顕進氏。氏は、真の家庭運動の提唱者文鮮明先生ご夫妻の三男ですが、「神様が天地を創造なさった動機は、真の愛、与えて忘れる愛、犠牲を伴ったとしても他のために生きる愛でした。この真の愛を実践することが奉仕の意味であり、それによってこそはじめて平和は創られるというのがこの運動のビジョンです。」と語られました。

奉仕活動というのは世の中にたくさん存在するものですが、神様の愛に基づかないと、与えた後忘れることができずに見返りを求めたくなったり、いくら奉仕しても変わらないじゃないかと限界が来たり、自分は奉仕したからえらいんだと傲慢になったり、奉仕しない人を見て裁きたくなったりしてしまいます。

そんな中で、この運動は、神様の本然の血統に連結された形でこそ、奉仕活動が普遍的輝きをもって平和に貢献できることを示しており、社会にとても大きな希望をもたらしてくれていると思いました。



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