神とはいったい     結婚について   心霊・死後の世界  ご感想


神様は、人間を愛したい、人間に愛を実らせたい、人間を幸福にしてやりたい、人間とともに喜びのなかで生きたい、と願われて、人間を男性と女性に分けて創造されました。

そして、そこに子供が生まれるようにし、家庭が形成できて、
そこに、4つの愛、夫婦の愛、父母の愛、子女の愛、兄弟の愛を実らせたかったのです。

私たちは、そのような、神様の愛と理想のなかで生きています。


ところが、現在、多くの人が人生に悩んでいます。

人間は、なぜ存在するのだろう。
人間は、なぜ生きなければならないのか。
苦しいのにどうして自殺してはいけないのか。
なぜ人を殺したらいけないのか。
人生の目標ってなんなんだろう。

そんな疑問をよく耳にします。


いえいえ、人生にまったく悩んでいない人も、たくさんいらっしゃるでしょう。

生きることはこんなにも素晴らしい。人を愛することの素晴らしさ、人間の素晴らしさを心から実感している。だから、自分は神様のことなんか考えなくてもいい。
むしろ、神様のことなんか考えるよりも、目の前にいる人のことを考えたい。

たいがいの人はそう思っているかもしれません。

でも、そうしてみんなで生きているこの社会は、非常に多くの問題を抱えています。

生きる意味を見出せない人に、なんと答えてあげたらよいでしょう。
生まれてきたんだからそれを受け入れよう、
死んだら周りの人が悲しむから生きなければならない、
目の前の人を愛してごらんよ、きっと生きる喜びが湧いてくる。

しかし、生きる意味や喜びを見出せない人は、人を愛そうと思っても、とても難しいかもしれません。

また、愛というものを知っている人がすべて幸福かといえば、そうではありません。
演歌などは、愛の美しさを歌いながら、その愛を裏切る自分を嘆いたり、この世の無情をうらんだりします。また、わたしたちはそういう歌に共感して、人間っていうのはこんな生き物なんだ、と納得したりします。


幸せを求めていながら、幸せになれない自分がいます。
また家庭がそうです。家族みんなが幸せを求めているのになかなか幸せな家庭になれません。

みんな幸せを求めているんだから、幸せな社会になりそうだけれど、そうならないのが今の社会です。



それはいったいなぜなのでしょうか。

それは、今の人類が、神様から遠く離れたところで生きているゆえ、神様の愛がわからなくなってしまい、正しい生き方がわからなくなってしまったからです。


では、なぜ人間は神様から遠いところで生きるようになってしまったのでしょう?

ここでは、それをご説明いたします。

創造主である神によって、霊界と地上界が創造されました。

霊界には、霊的生き物が存在しています。天使というのをご存知だと思いますが、天使がそれです。

天使は、霊界の生き物です。
天使は、人間よりも美しい存在のように思えますが、実はそれは人間が神様の愛がわからないような低い状態に落ちてしまったからで、
ほんとは天使よりも人間のほうが美しく、天使は地上の動物と同じ万物です。

人間は神の子ですが、天使は天の使い、すなわちしもべです。
神様は、人間のために、人間を守る立場の天使を創造されたのでした。

神様が天地創造を終え、生物の進化も人間の形にまで到達し、いよいよ人間に魂を吹き込んで、最初の人間が生まれたときのことでした。
人類最初の女性、聖書ではエバと呼ばれていますが、神道や仏教でもいろいろな呼び名があります。 

実は、この女性の身に起きた出来事にその原因がありました。

神様が、エバの成長を楽しみにしていたとき、人間と天使との間にある事件が起きてしまいました。
それは、人間に宗教が必要となったきっかけでもあるのですが、世に言う失楽園の物語です。

聖書の創世記には、そのときのいきさつが書かれています。ぜひ読んで見られるとよいと思います。
これは単なるおとぎ話ではなく、遠い昔に起きた事実です。
聖書が残っているというのは、この事実を人間が忘れることがないように神様が守ってくれたということで、それは神が人間を見捨てないでいてくれた証拠です。
ここに人類が本然の位置を取り戻す鍵が隠されています。
また、すべての人の深層心理の中にこのときの不安に包まれた記憶が残っていると聞いたことがあります。エバはすべての人の先祖なので、すべての人の深層心理の中に残っているのです。


本来、神様は、アダムとエバが成長して個人としての愛を完成できたら、二人を祝福して結婚させようと予定していました。
創世記1章17節にあるように、神様は「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と戒めをくださったのですが、これは、愛を完成して祝福を受けるまでは性的関係をもってはならない、という意味でした。

ところが、神様から取って食べてはならないと言われた木の実を、蛇に誘惑されてエバは食べてしまいました。そして、それをアダムにも勧めて、アダムも食べてしまったといういきさつです。


「取って食べた」というのは、失楽園という言葉から連想されるとおり、「性的関係」をもってしまったということです。

エバは、愛を完成する前に、しかも、アダムとではなく、天使長ルーシェルと性的関係を結んでしまったのです。

天使と関係をもったエバは、誘惑する心をもつようになりました。
また、本来の相手でない相手と関係を持ってしまった不安をかき消すために、本来の自分の相手であるアダムを誘惑し、やはり愛を完成する前の未完成期に、性関係を結んでしまいました。

天使長ルーシェルは、アダムとエバが神様から自分よりも多くの愛を受けるのを見て、ねたましく思い、神様に反逆してしまったということでした。

愛はそれ以上成長することができなくなってしまいました。その結果アダムとエバの間に生まれた子供は、兄が弟を殺害するような、神の愛とは程遠い人格にしかなれなかったのです。その子孫として生まれてきたのが今の人類なので、戦争が絶えないのです。

神様は、天使長ルーシェルのことをへびと呼びました。

そして、人間は、神様が言われたとおり、死んだのです。

死には、2通りの意味があります。肉的死と霊的死です。
肉的死とは、その字のごとく人間なら誰でも迎える、臨終のことです。
霊的死とは、堕落した状態、霊的無知に陥った状態のことです。

アダムとエバは成長途中で、まだ持つべきではなかった性的関係を持ってしまったことにより霊的成長がストップし、霊的無知に陥ってしまったのです。

アダムとエバは、霊的に死んでしまったわけです。
しかし、肉的には生きていて、いままでと何ら変わりのない姿でしたし、子供も産みました。

それでは、その子孫である我々人類は、霊的に生きているでしょうか?
アダムとエバが霊的に死んだあとに産んだ子孫、神様の真の愛を経験したことのない我々は、当然愛を完成することが出来ておらず、死んだ状態でいます。神様の真の愛を知らない霊的無知のなかにいます。
それを、堕落した状態にあるというのです。

よく、キリスト教では「悔い改めよ」といいますが、自分はなにも悪いことしてないのに何を悔い改めたらいいの?と疑問に思うことがあります。

それは、この話を知ってはじめて意味がわかることです。


結局、私たち人類は、神様を親として、愛を完成することができないまま、サタンと化した天使長を親として生きることになってしまいました。サタンをこの世の君という理由はここにあります。
人間は、神様と、のちに悪魔と呼ばれるようになった天使長の、両方を親に持つ存在となってしまったのです。
また、愛を完成できなかったので、人類は現在にいたるまで完成した愛を知らない状態にあります。

また、堕落のときに生じた恨みや憎しみ、不倫の心で、人類は、不幸のどん底にまで引きずり込まれてしまいました。個人の心も体も、また、家庭、国家、世界に至るまで、さまざまな矛盾や葛藤、困難にあふれています。

イエスキリストが、ユダヤ人たちを指して、「へびよ、まむしの子らよ」といった理由は、罪汚れたものたちよという漠然とした意味ではなく、こういう血統的な理由があったのです。

仏教では、堕落している人間の精神に働くものを邪念とか煩悩といい、その主体を魔とかいいますが、その正体まではわかりませんでした。
また、キリスト教も、聖書には書かれていたのですが、漠然としかわかりませんでした。

その主体、サタンとか閻魔大王とか悪魔とか呼ばれているものの正体は、天使長ルーシェルなのです。

天使長には、ルーシェル、ガブリエル、ミカエルの三天使長がいますが、ルーシェルだけが聖書に登場してこないのは、彼こそがサタンの正体だからです。
イザヤ書14章12節には、「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。・・・あなたは先に心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、・・・』。しかしあなたはよみに落とされ、・・・」
と書かれていますが、
この、神様より高い位置に着こうとしたのは、まさに天使長ルーシェルです。
英語で「Lucifer」(魔王)(ルシファー)には、明けの明星という意味があるのです。
天使長ルーシェルは、神に代わろうとして、堕落してしまいました。と同時に、人間も堕落してしまったのです。



人類は霊的に死んだ状態、堕落した状態に陥ってしまいました。

しかし、霊的死は、よみがえることができます。

肉的死は、肉体が腐ってしまうので、よみがえることはありませんが、

霊的死は、霊的無知に陥っているだけということであり、人間の魂自体は永遠だからです。

そして、神様が私達人間の霊的生命に責任を持ってくださっているからです。

でも、私達人間にも果たすべき責任があります。神様は、人間が果たすべき責任をまっとうするまで根気よく人間を導いて下さっているのです。

復活とは、霊的に生き返ることを指しています。
それは同時に霊界の存在も意味し、神の愛が永遠不変であることも意味しています。


天使の話と、堕落の話。これは空想でしょうか?

いいえ、真実です。

神様の創造がすべて愛でなされたのに、現実の社会がこれほど不幸と混乱にまみれている、そのこと自体が、この話を裏付けてくれていると言えるでしょう。



幸せを求めていながら、幸せになれない根本的な原因はここにあります。


実は、サタンも神様の愛をよく知っているのです。愛の原理原則を知っています。

サタンは、どうやって人間を神から引き離すかというと、その人が自己中心的な生き方をしていると、それを神様に讒訴(ざんそ)して、これは私のものだと主張します。

閻魔さまも、悪いことをしてきた人間を処罰しますが、同様です。正しいことをしてきた人間には手を出さないのです。

結局は、人間が、神様の愛の原理原則に従って正しく生きれば、サタンは自然に屈服します

でも、堕落した人類のなかに神様の愛の原理原則を完全に知っている人がいないのが問題です。

これをいかに解決するかが問題です。

実は、人類歴史の間には、神様の愛の原理原則を知っている人が出現するビッグチャンスの時が何度かありました。

映画「天地創造」に出てくる「ノア」のときや、「モーセの十戒」の「モーセ」のとき、また、「イエスキリスト」のときもそうでした。

しかし、ビッグチャンスを迎えながらも、人類は、そのチャンスを完全に活かすことができませんでした。

神様の人類救済の摂理は、人間が愛の原理原則に従うことができなかったことにより失敗し、延長を繰り返してきました。

人類歴史の背後には、神様の人類救済の摂理がありました。

現在、これだけ多くの問題を抱えた人類は、まだ神の創造理想を完成していません。

神様だけでは完成できない神の創造理想は、人間自らが努力して、完成させる必要があります。

なぜなら、人間は神様の子、創造主のすべてを相続すべき存在だからです。神様からその愛と祝福を受けたのが人間なのです。その愛と祝福を自らのものとするために神様とともに努力したという内容が必要なのです。

ですから、神様は、ブッダにも法を説いて人々を導いてくれるようにお願いしたのです。


ともに、神様の創造理想を完成させてまいりましょう。

神様の限りない祝福がともにありますように。


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